父と癌 

がんになった父の闘病生活の記録です

13.手術と兄と私と母と

2010年11月10日

この日のことは私自身もよく覚えています。

初めて父の癌と向き合ったのもこの日からかもしれません。

それまではなんとなーく母から父の病状を聞く。程度でした。

2008年、2009年と娘を授かり、子育てもあったせいか、父の病気と向き合うことはありませんでした。

それに父が病気だと知った時、私は19歳でした。

19歳で父が死ぬとか、そんなの想像すらできませんでした。

だから癌と言われても

治るんでしょう?としか思っていませんでした。

手術日当日。愛知県に向けて出発しました。

2時間ほどでしょうか。

知らない道をナビに従って進みます。

なんとかついた病院のデカさに驚きました。

ここに入院している人が全員癌なのか。と・・・まずはそれに驚きました。

父は笑顔で孫を出迎えてくれました。

母の顔のほうがなんだか血の気が引いていて今にも倒れそうでした。

スキンヘッドにし、大好きな矢沢永吉のタオルを手術着の上から羽織、準備満タンです。時計が進むのが嬉しいような、怖いような、家族は誰一人口にはしませんでしたが、なんとも言えない時間を過ごしました。

父はこのドアに入ったら生きてでてくるか、死んで出てくるか。二択に一つです。

母と父が手を取り合って決めた決断です。

”ほな、行ってくるわな”

そう笑った父の顔は少年のような曇のない見事な笑顔でした。

父にそっくりになった兄が父の背中を追いかけ頬には涙が流れました。

泣いてはだめだと・・・泣くということは父を信じていないことになる・・・そう思っていたせいか、兄の泣く声は兄によって必死に堪えさせていましたが、うまく涙が止まってくれなかったようです。

母は父から預かった矢沢永吉のタオルを手に

別れ際に父から言われた

”いってくるわ”

”いってらっしゃい”

という毎日のやり取りと今手術室の前でのいってらっしゃいを何度置き換えたのでしょうか。

当たり前だった言葉がこんなにも切なく感じるのはどうしてなのか。

なぜ、なぜ、父が癌なのか・・・

誰が悪いわけではないが、どうしてこうなってしまったのか。

きっとそんなことを考えていただろう。

我が家の父はいつも笑顔でした。

心配性な母と兄。脳天気でマイペースな私と父。

あーなったら・・・どうしよう。と考えるのが兄と母。

あーなったら・・・どうにかなるやろ。そう考えるのが私と父。

心配性な兄と母。

なるようにしかならんやろ?と笑いながら言ってくれる父は今はいません。

私はこの日から父が背負ってきた”なるようにしかならんやろ?”という言葉を継承することにしました。

父が元気になるまでは。

私は泣いたりしない。父の代わりに母と兄の支えになるとそう決めた日でした。