父と癌 

がんになった父の闘病生活の記録です

16.頑張れという言葉

歩けるようになった父は嬉しそうに毎日毎日歩行器を借りて、7階をくるくる回ります。

今まで気にもとめなかった景色がすべて鮮やかに見えたそうです。

毎日毎日、点滴棒を引っ張り、管だらけの患者が母と看護師さんに支えられ病室前をうろうろしているわけで、

(ゆっくりしたかった当時、ご入院されていた7階病棟同士様・・・ごめんなさい)

全然知らない人が父に話しかけてくれました。

”頑張ってるね。”

そう言って微笑んでくれました。

”頑張れ”ではなく、頑張っていることをしっていてくれているからこその、

”頑張ってるね。”

この言葉は父にとってとても嬉しい言葉で

頑張っていることをわかってくれているからこその言葉であって、

しかも同じがん患者。同じようにがんと戦っているいわば、その方も頑張っている方に、

”頑張ってるね”と言ってもらえたことは父にとって今でも忘れられない言葉となりました。

15.歩くこと

手術後、父は3日で一般病棟へ。

7階だったのだが、ICUから見ると7階が我が家のように感じていた父は、見送ってくれた看護師さんたちと再開を果たす。

おかえり。お疲れ様。ってみんなが声をかけてくれた。

無料の個室を借りることができたので母も泊まり込みの日が続きます。

なれない腹部のストーマ

前回の手術後、歩くことで内蔵が元の位置に戻り腸の働きが良くなる。

そう思っていたからか、父は歩けない・車椅子の生活と言われていたにも関わらず、歩行訓練を開始し始める。

身体から飛び出す何本もの管。右脇腹・左腎臓・腸・小腸・なれないストーマ・点滴に・・・

あれ?歩けるんか?ふと自分の姿に疑問をいだいた。

ご飯も食べてない。水分もとっていない。

父は術後3日経って初めて今までしていた当たり前の行動を思い出した。

なんとか立ちたい。動きたい。

母がどっかから持ってきた歩行器につかまり、看護師さんにも忙しい中付き合ってもらう。

どうも足の感覚がない。

だけど”立つ”という行為をしようとできたことに父は嬉しかったようです。

歩けるようになれば、きっと早く帰れる。

そう思っていたのかもしれません。

母は感覚のない父の足を毎日毎日、何時間もマッサージし続けました。

父も毎日毎日、歩行器につかまり、自己流でリハビリを行いました。

看護師さんも本当に忙しい中、毎日毎日付き合ってくれました。

何週間も経った頃、父はまだ感覚のない、他人の足のように感じる自分の足を一歩、一歩と前にすすめることができた。

ゆっくりと”自分の足や”と言い聞かす。

震えながら、一歩一歩と前に進むことができた。

看護師さんが”歩けたよーー!!”

と病院内だというのに叫んでみんなに知らせてくれている。

それもまた嬉しい風景。

そして主治医の先生もきてくれ、ニコニコと笑い、”やったな”と言ってくれた。

父はこの時、久しぶりに心から笑う母の姿をみた。

 

14.長い1日

父が手術室に入り、しばらくは手術室を見つめることしかできなかったが、手術室の前にずっといるわけにも行かず

1階に用意していただいている個室(畳の部屋)を一部屋借りる事ができた。

 

そこを拠点?に長い1日が始まりました。

父を見送ったのは朝。

まず第一の関門としては麻酔後の開腹直後。

手術できずに閉じる可能性もあるということ。

この時点で父の3年後の生存率は10%

5年先に父の姿はなくなっていることになる。

時計を何度見つめたかわかりません。

近くにスーパーがあったのですが、いつ連絡がくるかわからない状態ででかけることもできず病院内に缶詰状態。

まだ幼かった子ども二人は飽きていただろうがぐずることなく院内でおとなしく過ごしてくれました。

12時・・・お昼を過ぎた頃、母と顔を見合わせ”もう大丈夫やんな?”と確認し一息つきました。

開腹後すぐに閉じることはなかったようです。

先生たちが父の癌を取り除きだしてくれているのだということ。

あとは祈ることしかできませんでした。

神様とは仏様とか、そんなの今まで思ったことなんてなかったけれど、どうしていいのかわからない状態が続くのは本当に怖い時間でした。

夜になっても手術が終わったかどうかの連絡は来ません。

父は果たして生きているのだろうか・・・それすらわかりません。

21時・・・22時・・・こんなに長丁場になるとは思っていなかったので、子どもたちの布団すらありません。

なんとか車にのせてあった毛布(ひざ掛け程度の大きさ)で寒さをしのぎます。

うとうとと眠りかけては寝れず、用意してもらっていた和室には固定電話がおいてあって、内線がかかってくるようになっていました。

いつかかってくるかもわからず、母と二人で電話番。

朝5時くらい、母がトイレに行ったタイミングで電話がなりました。

いきよいよく電話にでると愛想もなにもない声で

”まだまだかかるんで寝てていいですよ。あ。腫瘍みます??”

はい??最初は何のことかわかりませんでした。

腫瘍をみる?まだ寝てていい?

とりあえず、子どもが寝ている状況で私は動くことができない。母はトイレに行っている。

でもすぐ戻ってくるだろう!

”みます”

その一言だけいうと、

”手術室前まできてください”

それだけいうと電話を切ろうとしていた先生だったので、

慌てて”あの!!父は大丈夫なんでしょうか?!”

振り絞った声はきちんと言葉になっていたかわかりません。笑

”大丈夫ですよ”

電話越しに先生の声が聞こえてきました。

電話を切ってすぐ母が戻ってきました。

”父ちゃん生きとるて!腫瘍見せてくれるていうてる!はよ!早く手術室行って!”

私はわけも分からず母に伝えました。

母もいきなりのことだったので

え?え?と言いながら走って行きました。

摘出した腫瘍とその周りの臓器。

30センチほどの肉の塊を母は見せてもらったようです。

父の手術は見事に成功。

世界でその手術を経験した方は数えるほどしかいないと言われている手術だそうです。

そしてその手術をして、生きている方はほぼ、ほぼ居ないんだそうです。

 

 

13.手術と兄と私と母と

2010年11月10日

この日のことは私自身もよく覚えています。

初めて父の癌と向き合ったのもこの日からかもしれません。

それまではなんとなーく母から父の病状を聞く。程度でした。

2008年、2009年と娘を授かり、子育てもあったせいか、父の病気と向き合うことはありませんでした。

それに父が病気だと知った時、私は19歳でした。

19歳で父が死ぬとか、そんなの想像すらできませんでした。

だから癌と言われても

治るんでしょう?としか思っていませんでした。

手術日当日。愛知県に向けて出発しました。

2時間ほどでしょうか。

知らない道をナビに従って進みます。

なんとかついた病院のデカさに驚きました。

ここに入院している人が全員癌なのか。と・・・まずはそれに驚きました。

父は笑顔で孫を出迎えてくれました。

母の顔のほうがなんだか血の気が引いていて今にも倒れそうでした。

スキンヘッドにし、大好きな矢沢永吉のタオルを手術着の上から羽織、準備満タンです。時計が進むのが嬉しいような、怖いような、家族は誰一人口にはしませんでしたが、なんとも言えない時間を過ごしました。

父はこのドアに入ったら生きてでてくるか、死んで出てくるか。二択に一つです。

母と父が手を取り合って決めた決断です。

”ほな、行ってくるわな”

そう笑った父の顔は少年のような曇のない見事な笑顔でした。

父にそっくりになった兄が父の背中を追いかけ頬には涙が流れました。

泣いてはだめだと・・・泣くということは父を信じていないことになる・・・そう思っていたせいか、兄の泣く声は兄によって必死に堪えさせていましたが、うまく涙が止まってくれなかったようです。

母は父から預かった矢沢永吉のタオルを手に

別れ際に父から言われた

”いってくるわ”

”いってらっしゃい”

という毎日のやり取りと今手術室の前でのいってらっしゃいを何度置き換えたのでしょうか。

当たり前だった言葉がこんなにも切なく感じるのはどうしてなのか。

なぜ、なぜ、父が癌なのか・・・

誰が悪いわけではないが、どうしてこうなってしまったのか。

きっとそんなことを考えていただろう。

我が家の父はいつも笑顔でした。

心配性な母と兄。脳天気でマイペースな私と父。

あーなったら・・・どうしよう。と考えるのが兄と母。

あーなったら・・・どうにかなるやろ。そう考えるのが私と父。

心配性な兄と母。

なるようにしかならんやろ?と笑いながら言ってくれる父は今はいません。

私はこの日から父が背負ってきた”なるようにしかならんやろ?”という言葉を継承することにしました。

父が元気になるまでは。

私は泣いたりしない。父の代わりに母と兄の支えになるとそう決めた日でした。

 

 

12.手術の同意と死の覚悟

ついに小さくなった腫瘍。

10%から20%に生存率を上げるため父は手術に挑みます。

2日前に入院。いろいろと準備があるようです。

周りにいるのは胃・膵臓・肝臓・胆嚢・大腸と消化器内科外科関係の患者様ばかりで勇気づけられたようです。

入院前にはパーキングでカツ丼とラーメンを食べてからの入院。

このカツ丼とラーメンが父にとって、4ヶ月もの間絶飲食になる前の最後の晩餐になりました。

手術への承諾書などいろいろと忙しい日をすごした父は、あっという間に手術前夜になっていました。

その時、主治医の先生からの呼び出し。

父と母は顔を見合わせたそうです。

呼ばれた部屋には主治医の先生、サブの先生、看護師長、担当看護師さんがいました。

主治医の言葉はこうでした。

”手術前日の夕方に申し訳ありませんが、手術を受けられますか?止められますか?止めてもいいんですよ。

最終確認です。手術を明日決行しますか?”

図体はでかい父です。我が家の大黒柱で、いつも笑顔で。

でも本当は誰よりも小さいハートの持ち主です。誰よりも怖がりで誰よりも泣き虫な父です。

だけどずっとずっと私達家族の前では頼りがいのある父でした。

主治医の言葉が耳に残ります。

そうなんです。

もしかしたらこの選択が明日手術中に死んでしまう可能性は大いにあるのです。

明日自分で自分の余命を経ってしまうことになるかもしれないのです。

”もし”もし手術しなければ・・・

”もし”失敗したら・・・

”もし・・・”という言葉が父の頭の中でくるくると回ります。

そんな悩みを断ち切るかのように横に居た母が答えます。

”先生、この人一回決めたらやりますから!よろしくお願いします!”

母の言葉に何度救われたかわかりません。

父の心の弱さは母が埋めます。

母の心の弱さは父が埋めます。

我が家の形です。

最高の嫁や!!と父はこのときのことを何度も思い返しては笑いながら話します。

死の覚悟は自分だけのものではありません。

父が1人で悩むことはありませんでした。

母が父と一緒にがんと戦うことを決めた一言だったのかもしれません。

 

11.手術に向けた抗癌剤治療の開始

同年、3月より抗癌剤治療の開始。

手術に向けての治療が開始となる。

この抗癌剤治療で癌が小さくならなれけば、手術をしてもらうことすらできません。

毎日毎日、”小さくなれ、小さくなれ”と願いながらの治療となる。

まずはじめに使用したのはゼローダという抗癌剤。飲み薬と併用なのだが、一粒がでかかった。と父は今でもよく言います。

残念ながら3ヶ月治療しましたが、父には効きませんでした。

アーゼタックスに変更。6月下旬から変更する。

アーゼタックスの副作用は身体中のしびれ、湿疹、かゆみ、口内炎、色素の黒ずみ、脱毛など。

(人によっては違う副作用もあるかと思います。)

 

我が家では父が脱毛があり初めてがん患者らしい。なんてスキンヘッドにした父を笑っていたこともありました。笑

そして、ついに尾てい骨近くの腫瘍が小さくなり、手術可能に。

2010年11月10日

父の手術に日程が決まりました。

10.5年生存率0%

”もし手術が成功しても3年の生存率は10%”

”このまま余生をすごしてはどうですか?”

 

意味のわからない医者の言葉に空いた口が塞がらなかったと母は言います。

目の前が真っ暗になり、5年後長年連れ添ってきたこの人・・・おらんくなるの??

”死”が目の前に感じたのはここからでしょうか?

 

尾てい骨近くの腫瘍が大きすぎて今のままでは手術は不可能。無理をして手術中に死ぬリスクが高すぎ、このままがんを抱いたまま余生を過ごすことに医者は賛成していたようです。

 

”腫瘍が小さくなれば手術はできますか?”

 

そう聞いたのは母でした。

 

答えは”YES”

 

ただし、かなりの危険な手術。そして排便排尿ともにストーマ生活。歩行は不可能なため車椅子での生活となる。

上記はベストな場合である。

術後の合併症や感染症、臓器不全による死亡確率は60%以上

運良く生き延びたとしても、3年後の生存率は10%から20%になるだけで生存率は100%になるわけではない。

17時間以上かかる手術になる。

手術中に命を落とすリスクも高く本当にするのか、しないのか・・・

家族で話し合ってからにしてほしいと医者から言われたそうです。

 

ただやはり言い出したら聞かない父です。

 

”俺、手術するんや!”

と私は相談された記憶はありません。さすが言い出したら聞かない父です。

手術してもらえるだけラッキー。そう思っていた父は手術できる日が楽しみで楽しみで仕方なかったそうです。